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2009/12/10

赤松林太郎・墨東より時をたずねて(19) ― 2009年冬号「こうべさんだ生活ART情報誌Chiffon」

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【こうべさんだ生活ART情報誌Chiffon 2009年冬号】

※エッセイ本文は↓↓↓

よろしき面影をたずねて

 慣れない鋏を持つ手は不器用そのもの、並べられた花は見たこともなければ、もちろん名前も知らないものばかり。これまで振り返ることのなかった路傍の草花や木だが、それぞれに立派な名前が与えられている。そんな当たり前のことに気づかされると、生けとし生けるものすべてに愛情が生まれてくる。最近のことだが、私は東京でいけばなを始めた。
 花器はどれを使っても構わないとのことで、2、3種類の花器にお花をなげいれる。先月の稽古場では、床の間に狩野探幽の掛軸が飾られていた。庵主コレクションの花器が落ち着く場所として、これ以上のところはないように思われたので、私の生けたものもぜひ置いてみたかった。絵心がないくせに、「何かを作らなければならない」と肩肘を強張らせてしまう。しかし、そういうものではない。楽譜との関わりも同じだが、まずは向かい合い寄り添って、その声に耳を傾ける。「野山、水辺おのづからなる姿」を知って、草木の風興をわきまえなければならない。ところが、花器の中で枝がクルクル回転してしまって、およそ遠い世界の話である。「よろしき面影」はなかなか形にならないが、先生に手を加えていただくと風がすっと通り、探幽の描いた翁も喜んでいるように見受けられた。この歳になって改めて、技を教わることの重要さを噛みしめている。

 夏号のエッセイ以来、長谷川等伯の磁力に引き寄せられているが、いけばなを始めたのもその一つである。智積院所蔵の『桜図』については前々回にも触れたが、胡粉で盛り上げられたぼたん雪のような白い桜が画面いっぱいに花開く春絢爛は、長男・久蔵が26歳の若さで急死する前年に完成させた作。八重桜が華やかな一方で、地面には季節の野草も生き生きと描かれているのは感動的で、そこからは等伯-久蔵という優しさの系譜が覗かれる。人の優しさが表れたものとしての「よろしき面影」に、私は強く惹かれている今日この頃。
 来年は等伯の没後400年なので、東京と京都では歴史的な回顧展が企画されている。それにあわせて、平凡社の名門シリーズ「別冊太陽」で等伯が特集される。私も執筆者の一人として記事を書かせていただいたので、ぜひ読んでいただければと思う。発売は1月中旬予定。

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