
びわ湖ホール声楽アンサンブル東京公演Vol.2
イギリスバロック〜ふたつの愛のかたち〜
会場: 第一生命ホール
日時: 2008年11月24日(月) 開演14時指揮=本山秀毅、独唱・合唱=びわ湖ホール声楽アンサンブル、弦楽=ザ・オーセンティック・プレーヤーズ
バレエはルネッサンス期のイタリアを起源として、オペラの一部として発達していくが、イタリアのオペラ作品の中で用いられるのは最小限であった。
16世紀に入ってフィレンツェのメディチ家からフランス王室に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)が、バレッティ(balleti)をフランスに持ち込んだあたりからバレエの歴史が始まるのだが、フランス語読みでバレ(ballet)と呼ばれて以降、バレエはフランスの宮廷において盛んに踊られるようになった。
宮廷バレエは‘ballet de cour’と表記され、ルイ14世(1638-1715)の治世が最も盛んだった。太陽王ルイ14世が5歳でフランス国王に即位したのは1643年のことだが、その際には5時間にも及ぶ宮廷バレエが催され、ルイ14世も自ら出演したという。
やがて舞台デビューを果たしたルイ14世は王立舞踏アカデミーを創立し、今日に至るまでバレエがフランスを中心に発展する礎を築いた。「太陽王」の異名もまた、元々はルイ14世がアポロ(太陽神)に扮して踊ったことから生まれたものである。
ルイ14世が(舞踊家として)現役を引退した翌1671年、オペラ座が設立された。当時のバレエはオペラの一部(あるいは一体)だったので、バレエの舞台は自動的に宮廷から劇場に移ることになった。そして言うまでもなく、バレエは職業化していくことになった。
フランス・バロックを代表する作曲家に、ジャン=バティスト・リュリ(1632-1687)がいる。コルビオ監督の映画『王は踊る』(2000)において、圧倒的なスケールで描かれているその人である。
フランスの貴族社会で権勢をほしいままにしていたリュリだが、元々はフィレンツェ生まれである。親政を開始したルイ14世の寵愛は絶えることなく、宮廷音楽監督に任命された1661年に帰化した。
その頃のフランスの音楽界は、イタリア・オペラの上陸によって大きな影響を受けていた。
バレエという舞踊が中心的役割を果たしていた当時のフランスにおいて、イタリア・オペラは長すぎ、そのレチタティーヴォは単調に感じられ、古い言葉による詩は退屈なものと見なされた。しかし一方で、建築家や機械仕掛人によって操縦された華麗なスペクタクルには熱狂したのである。
フランスのオペラは、そういったイタリア・オペラに牽引される力と反発する力とによって形成されていくことになるのだが、その両方の性格をうまく操った作曲家がリュリということになる。
イギリスの場合も、フランスとほとんど同じような条件で、オペラの定着が遅れた歴史を持つ。また芸術上の要因とは別に、1642年に端を発する清教徒革命とチャールズ1世(1600-1649)処刑後の共和制の期間中、劇場が事実上閉鎖されていたという事情もある。
革命の危険が高まり、チャールズ1世の嫡男であったチャールズ2世(1630-1685)はフランスに亡命して、ルイ14世の宮廷に身を寄せることになる。そして万事において華美な生活の中で、チャールズ2世は絢爛なフランス音楽に魅かれていった。
王政復古によって1660年にロンドン入城、そして彼の親仏的思考は―やがて名誉革命の遠因へと発展するのだが―、イギリスの地にフランス音楽、特にオペラを定着させようと働いた。
ところが不思議なことに、王政復古によって演劇の上演が可能になると、人々の関心はオペラそのものから離れていった。
「セミ・オペラ」と呼ばれるイギリス独自の演劇形態が人気を博したのだが、これは俳優によって演じられる戯曲に、華やかな音楽や舞踊のエピソードを挿入したもので、劇とオペラを折衷したようなものだった。ここには清教徒革命以前、イギリスで最も高度な芸術形式だった仮面劇(マスク)の要素が取り込まれており、スペクタクルと舞踊に重きを置くものだった。つまりは、宮廷バレエのイギリスにおける片割れのようなものである。
さて、このコンサートは演奏会形式ではあったが、びわ湖ホール声楽アンサンブルが17世紀イギリス・バロックのオペラを2作品扱うという、非常に興味深いものだった。演奏されたのは、ジョン・ブロウ(1649-1708)の『ヴィーナスとアドニス』、そしてヘンリー・パーセル(1659-1695)の『ディドとエネアス』。
ブロウはパーセルと並んで17世紀後半のイギリスを代表する重要な作曲家だが、チャールズ2世の王政復古まもない頃、ヘンリー・クックが率いる宮廷礼拝堂の少年聖歌隊に所属していた。そして、クリストファー・ギボンズ(1615-1676)にオルガンを学んだ。グレン・グールドが時代を通じての気に入りの作曲家として名を挙げているオーランド・ギボンズはクリストファーの父にあたる。
クリストファー・ギボンズがマシュー・ロックと共同制作した『キューピッドと死』は、導入楽曲、舞踊曲、テキストとはあまり関係のない楽しい歌曲、レチタティーヴォなどで構成されている。このレチタティーヴォは、イタリアではすでに使用されてなくなった様式に従っており、調性の不安定さやアリオーソの突発さが指摘される。しかし、ここで見られるリズム上の自由さや多くの対斜、自由な不協和音などを含む手法が、やがてブロウやパーセルのレチタティーヴォへと至る道を作っていったのである。
コンサートで最初に上演されたブロウの『ヴィーナスとアドーニス』は、「国王を喜ばせるためのマスク」と付記されており、ブロウが残した唯一の舞台作品である。そして、パーセルの『ディドーとエネアス』は規模こそ小さいが、数多いパーセルの舞台作品の中では、厳密な意味での唯一のオペラとなっている。
バロック時代のオペラ・セリアがギリシア・ローマ神話を題材とする通例に則った前者に対して、後者は古代ギリシア史における英雄時代に題材を求めている。
『ディドーとエネアス』の場合、すでに広く知られている物語を使用することで、筋をできるだけ切り詰めて、早い展開でドラマティックな台本に仕上げた。フランス風序曲で開始し、朗唱風のアリオーソや各幕に器楽の舞曲を挿入して、「勝利の踊り」や「水夫の踊り」、「魔女入場の前奏曲」、「怨霊のエコー・ダンス」では(簡素なものだが)舞台装置を用いて、超自然的なものを出現させようと試みた。
このように、フランス・オペラの影響を多分に読み取ることができる作品であるが、声楽の表現や合唱の書法ではイタリア様式の巧みな技術導入も見られる。死に臨むディドーの深い悲しみなどは、イタリア風のアリオーソだからこそ崇高な表現が得られている。
これこそが、劇的な詩の力を弱めずに、マスクの持つ視覚的また音楽的な楽しみを保持しようとしたイギリスの伝統ともいえよう。
この2作品に漂うのは、言うまでもなく「フランスの香り」である。パーセルの『ディドーとエネアス』は、ブロウの『ヴィーナスとアドーニス』が直接的モデルとなっているが、それ以上に借用したのは、やはりフランスのリュリであったことだろう。
イタリアからフランス、そしてフランスからイギリスに至るほぼ1世紀の長い歴史が、このコンサートにおける愛をめぐる高貴な悲劇を完結させた。
様式感を損なうことなく、多彩な表情を盛り込んだ演奏で素晴らしかったのだが、この歴史が後のヴォーン=ウィリアムズ(1872-1958)やベンジャミン・ブリテン(1913-1976)とは無関係どころか、イギリスの舞台音楽におけるマスクの要素が「伝統」として継承されていることにも気づかせる、大変に意義のあるコンサートだったことを最後に記しておく。
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